全碟歌曲解读(附日文歌词)

01 腰まで泥まみれ(腰下沾满泥) 原曲名Waist Deep in The big Muddy,美国反战歌曲,由美国民歌歌手皮特·西格(Pete Seeger,1919-2014)1967年创作词曲,左翼歌手、歌词翻译家中川五郎译词。原曲以1956年发生在美国南卡罗来纳州的带溪事件(Ribbon Creek incident,酗酒中士Matthew McKeon带领海军陆战队员强渡带溪,因水流湍急、沼泽遍布,士兵不习水性,最终造成6名士兵溺死)为背景,塑造路易斯安那州一次军演中不听士兵劝阻,渡河溺死的一位愚蠢领队的形象,以他的死影射和批判逐渐陷入“泥淖”的越战。 昔ぼくが優秀な軍隊の隊員だった時 月夜の晩にイルジアナで演習した 隊長はぼくらに河を歩いて渡れと言った ぼくらは腰まで泥まみれ だが隊長は言った「進め」 「隊長 危ない 引き返そう」と軍曹は言った 「行くんだ軍曹、俺は前にここを渡った ぬかるみだけど頑張って歩き続けろ」 ぼくらは腰まで泥まみれ だが隊長は言った「進め」 「隊長こんな重装備では誰も泳げません」 「そんな弱気でどうするか、俺についてこい 俺たちに必要なのは ちょっとした決心さ」 ぼくらは首まで泥まみれ だが隊長は言った「進め」 月が消え溺れながらの叫びが聞こえて 隊長のヘルメットが水に浮かんだ 「みんな引き返そう」と、軍曹が言った ぼくらは泥沼から抜け出して 隊長だけ死んでいった 裸になって 水に潜り死体を見つけた 泥にまみれた隊長はきっと 知らなかったのだ 前に渡ったよりもずっと 深くなっていたのを ぼくらは泥沼から抜け出した 「進め」と言われたが これを聞いて何を思うかはあなたの自由だ あなたはこのまま静かに生き続けたいだろう でも今の世の中思い出させるあの時の気持ち ぼくらは腰まで泥まみれ だが馬鹿は叫ぶ「進め」 ぼくらは腰まで泥まみれ だが馬鹿は叫ぶ「進め」 ぼくらは腰まで、首まで、やがてみんな泥まみれ だが馬鹿は叫ぶ「進め」 02 スラバヤ通りの妹へ(朝泗水大街去的少女) 松任谷由実作品,收录于1981年专辑「水の中のASIAへ」中。スラバヤ(苏腊巴亚),汉名“泗水”,印尼第二大城市。17世纪,荷兰入侵并殖民印尼,1942年,日本占领印尼,结束了荷兰殖民的历史,并改变了荷治时代的面貌。歌曲中多次回顾历史,以种种历史事物的消失及一位老人对“我”及殖民者日本转移视线的举动,批驳日本对东南亚的占领政策。 妹みたいね15のあなた 髪を束ね 前を歩いてく かごの鳩や不思議な果物に 埋もれそうな朝の市場 やせた年寄りは責めるように 私と日本に目をそむける でも “RASA…(RASA…) RASA SAYANG GEH”(印尼语,rasa,感觉、味道;sayang,可爱、怜爱,geh,语气助词,大意是怀念往昔的一种美好感受) そのつぎを教えてよ 少しの英語だけがあなたとの 架け橋なら淋しいから RASA SAYANG GEH 妹みたいね小さなあなた けれどとてもしっかりしている 写真で見た波止場に着くころは(该港口指雅加达) あなたくらい陽に焼けそう オランダ造りの町もやがて 新しいビルに消されてゆく でも “RASA…(RASA…)RASA SAYANG GEH” その歌が大好きよ 土埃り 馬車がゆくスラバヤを 思い出せる 遠くても RASA SAYANG GEH RASA SAYANG(RASA…)RASA SAYANG GEH そのつぎを教えてよ 少しの英語だけがあなたとの 架け橋なら淋しいから RASA SAYANG GEH(RASA…) RASA SAYANG GEH その歌が大好きよ (RASA SAYANGSAYANG GEH) RASA SAYANG RASA SAYANG GEH ラララ… RASA SAYANG(RASA…) RASA SAYANG GEH (RASA SAYANG SAYANG GEH) RASA SAYANG RASA SAYANG GEH 03 美しき五月のパリ(绝美的五月巴黎) 1968年,国际学生运动高涨。5月,巴黎爆发“五月革命”,Le Joli Mois de Mai a Paris很快成为革命中歌唱的名曲。日本受其影响,也爆发了学生运动。当时就读于东大的加藤登纪子积极参加,并将Le Joli Mois de Mai a Paris译为日语,从此传唱于日本。 赤い血を流し 泥にまみれながら この五月のパリに 人は生きてゆく オ ル ジョリ モァ ドゥ メ ア パリ オ ル ジョリ モァ ドゥ メ ア パリ 風よ吹いておくれ もっと激しく吹け 青空の彼方へ 我等を連れゆけ オ ル ジョリ モァ ドゥ メ ア パリ オ ル ジョリ モァ ドゥ メ ア パリ 年老いた過去は いま醜く脅え 自由の叫びの中で 何かが始まる オ ル ジョリ モァ ドゥ メ ア パリ オ ル ジョリ モァ ドゥ メ ア パリ ほこりをかぶった 古い銃を取り パリの街は今 再び生まれる オ ル ジョリ モァ ドゥ メ ア パリ オ ル ジョリ モァ ドゥ メ ア パリ 歌え 自由の歌を 届け 空の彼方へ この五月のパリに 人は生きてゆく オ ル ジョリ モァ ドゥ メ ア パリ オ ル ジョリ モァ ドゥ メ ア パリ 04 ユエの流れ(顺化之川) 顺化是越南中部城市。越战爆发后,顺化因处于南北越交界处,时常受到攻击,战火纷飞。《顺化之川》以女性视角描写等待恋人归来的女子,反映战争对无辜平民的伤害。 流れは月にきらめき 憶(おも)いは波にゆらめく 恋しやあの人の胸 くるめく愛の接吻(くちづけ) 黒髪匂いをこめて 唇花より紅く 粧いこらして待てど あの人は来ない 遙かにひびく 太鼓の音は 涙をさそう 別離(わかれ)の調べ 母なる順化(ユエ)の流れよ 愛おば守らせ給え 火を焚く祭りの夜に 燃え立つ切ない恋よ 梢に月はかたむき 崩れた城跡悲し 涙で星影消えて あの人は来ない 愛しい人は 何故何故来ない わたしは独り 淋しく帰る 05 リリー・マルレーン(莉莉玛莲) 原为二战前创作于德国的歌曲,二战爆发后,德国在占领国通过广播电台播放这首歌曲,渐渐为英、美等国士兵所闻,同时受到轴心国与同盟国士兵的喜爱。歌词描写作战士兵对故乡恋人的思念,二战结束后被译为多种语言。 06 最後のダンスステップ(最后的舞步) 来自于漫画「昭和柔侠伝」。漫画描绘了西安事变到太平洋战争的一个传奇故事,歌词则着墨于表现太平洋战争爆发前奔赴远方的男子与恋人跳起最后一支舞,依依惜别的终幕。 今宵かぎりのダンスホール あなたのリードで ステップ踏めば お別れするのに夜会服が 何とか明日もくうるくると おいらめとろのつむぢ旋風 ソフトハットをなびかせて シベリア·ケーキにお茶でも飲んで ギンザのキネマに行きたいナア 踊ろうか 踊りましょう せめて 今宵かぎりでも あなたなんだかおセンチね もうすぐ外地へお出征しね あたしも最後のパアマネント この髪乱して踊りたい 踊ろうか 踊りましょう せめて 今宵かぎりでも 今宵かぎりのダンスホール 扉閉ざせば あすしれぬ 今風立ちぬ いざ征かん あすは 異邦のつむざ風 踊ろうか 踊りましょう どうせ 今宵かぎりじゃない 07 戦争は知らない(不知有战争) 野に咲く花の名前は知らない だけども野に咲く花が好き ぼうしにいっぱいつみゆけば なぜか涙が 涙が出るの 戦争の日を何も知らない だけど私に父はいない 父を想えば あヽ荒野に 赤い夕陽が夕陽が沈む いくさで死んだ悲しい父さん 私はあなたの娘です 二十年後のこの故郷で 明日お嫁にお嫁に行くの 見ていて下さいはるかな父さん いわし雲とぶ空の下 いくさ知らずに二十才になって 嫁いで母に母になるの 08 死んだ男の残したものは(只剩死去的男子) 日本反对越战的歌曲。 死んだ男の残したものは ひとりの妻とひとりの子ども 他には何も残さなかった 墓石ひとつ残さなかった 死んだ女の残したものは しおれた花とひとりの子ども 他には何も残さなかった 着物一枚残さなかった 死んだ子どもの残したものは ねじれた足と乾いた涙 他には何も残さなかった 思い出ひとつ残さなかった 死んだ兵士の残したものは こわれた銃とゆがんだ地球 他には何も残せなかった 平和ひとつ残せなかった 死んだ彼らの残したものは 生きてる私 生きてるあなた 他には誰も残っていない 他には誰も残っていない 死んだ歴史の残したものは 輝く今日と また来る明日 他には何も残っていない 他には何も残っていない 09 ケ・サラ(顺其自然) ケ・サラ是意大利语que sera的日语音译。歌曲以意大利小镇圣雷莫为背景,表现意大利战后复兴的情景。 平和で美しい国 信じあえる人ばかり だけど明日(あした)は どうなることやら だれも わかりはしないさ ケ・サラ ケ・サラ ケ・サラ わたし達の人生は 階段を手さぐりで歩くようなもの ケ・サラ サラ クエル ケ・サラ 固く心むすばれて 誓い交した友達 だけど そむきあうことも あるだろう だれも わかりはしないさ ケ・サラ ケ・サラ ケ・サラ わたし達の人生は 涙とギター 道連れにして 夢みていれば いいのさ アモーレ・ミオ くちづけした 初めての激しい恋 だけどいつかは つめたくなるのさ だれも わかりはしないさ ケ・サラ ケ・サラ ケ・サラ わたし達の人生は 涙とギター 道連れにして 夢みていれば いいのさ ケ・サラ ケ・サラ ケ・サラ わたし達の人生は 涙とギター 道連れにして 夢みていれば いいのさ 10 永遠の調べ(永久的旋律) 先行单收录曲。
11 死んだ女の子(死去的女子) 作为先行单发过。根据土耳其诗人纳辛·辛克美(Nâzım Hikmet)的诗作《死去的女子》进行的再创作。描写广岛原爆下的惨状。 あけてちょうだい たたくのはあたし あっちの戸 こっちの戸 あたしはたたくの こわがらないで 見えないあたしを だれにも見えない死んだ女の子を あたしは死んだの あのヒロシマで あのヒロシマで 夏の朝に あのときも七つ いまでも七つ 死んだ子はけっして大きくならないの 炎がのんだの あたしの髪の毛を あたしの両手を あたしのひとみを あたしのからだはひとつかみの灰 冷たい風にさらわれていった灰 あなたにお願い だけどあたしは パンもお米もなにもいらないの あまいあめ玉もしゃぶれないの 紙きれみたいにもえたあたしは 戸をたたくのはあたしあたし 平和な世界に どうかしてちょうだい 炎が子どもを焼かないように あまいあめ玉がしゃぶれるように 炎が子どもを焼かないように あまいあめ玉がしゃぶれるように 12 さとうきび畑(甘蔗田) 1964年,寺岛尚彦访问冲绳,参观摩文仁之丘一带(后建设为冲绳和平纪念公园)后有感而发,写下该作。二战后期,美军进逼日本本土作战,冲绳作为保卫日本本土的前线阵地,美日在这里激烈决战,造成大量平民死亡,他们的尸体就掩埋在甘蔗田下。在歌曲中,一位少女来到甘蔗田寻找战死的父亲,在持续不断的风声中(ざわわ在全曲中共出现66次)诉说失去亲人的悲恸。夹带着历史问题的西南,谈及日美关系及统一问题时,并没有随着安保协定的修改和冲绳的最后复归(1972)而好转。右翼化、中日关系及琉球问题,将成为长期困扰日本社会的三大痼疾。 ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ 今日もみわたすかぎりに 緑の波がうねる 夏の陽ざしの中で ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ むかし海の向こうから いくさがやってきた 夏の陽ざしの中で ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ あの日鉄の雨にうたれ 父は死んでいった 夏の陽ざしの中で ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ そして私の生まれた日に いくさの終わりがきた 夏の陽ざしの中で ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ 風の音にとぎれて消える 母の子守の唄 夏の陽ざしの中で ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ 知らないはずの父の手に だかれた夢を見る 夏の陽ざしの中で ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ 父の声をさがしながら たどる畑の道 夏の陽ざしの中で ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ お父さんて呼んでみたい お父さんどこにいるの このまま緑の波に おぼれてしまいそう 夏の陽ざしの中で ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ 今日もみわたすかぎりに 緑の波がうねる 夏の陽ざしの中で ざわわ ざわわ ざわわ 忘れられない悲しみが ざわわ ざわわ ざわわ 波のように押し寄せる 風よ悲しみの歌を 海に返してほしい 夏の陽ざしの中で ざわわ ざわわ ざわわ 風に涙はかわいても ざわわ ざわわ ざわわ この悲しみは消えない 总的来说这是一张反战歌曲集合,而名《和平元年》,很大程度上也是打着本土复归和原爆纪念70周年的牌,政治意味很浓。西南自古出产日本好声音,只可惜总是被拿来当市场宣传员用~