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友川かずきは1950年2月16日秋田県八竜町に農家の次男として生まれる。本名及位典司(のぞきてんじ)。祖父母の手で育てられ、中学時代に中原中也の詩「骨」に衝撃を受けて詩作を始める。能代工業高校では名門バスケ部に所属しながらも太宰治・小林秀雄に傾倒し、詩作はノート30冊に及んだという。
1969年集団就職で上京、洋服問屋に勤めるが秋田訛りがひどく、接客に向かず6ヶ月で退社。仕事を転々とするが"のぞき"という本名を笑われるのがイヤで、"友川かずき"という偽名を使って練馬の飯場へ。若い者はひとりもいなくて「なんで自分だけこんなところにいるんだろう」と悶々としていたという。詩を月刊誌に投稿したが認めてもらえなかった。ある日ラジオから流れた岡林信康の「山谷ブルース」などに感動し、表現者として歌手を目指すことになる。友人からギターを譲り受け自作詩に曲をつけ始めた。1971年URCレコードのバイトで知り合ったあがた森魚からフォークジャンボリーのことを聞いて飛び入り参加を決意する。1971年8月7日、中津川・ロック・サブステージ。
「数人の出番を待って、いよいよ友川の番がきた。前に歌った人からギターを借りて、秋田なまりのアクセントを目一杯強調してうたい始める。自分のいまのハングリーな状況が叫びとなってほとばしる。ギターを弾き始めると、それを貸した男が急に心配そうに二、三歩ステージに近寄ったのだ。弾くというよりヒッカキまわして叩いていたのだから。誰だって山下洋輔に自分のピアノは貸したくない。すっかり後悔している男の前で、ねばっこいツバをとばし噛みつくように歌い、青白い顔が紅潮しはじめた頃、ステージの横から「ハイ、次で交代」の声がかかる。時間にして10分足らず、数十人からのパラパラとした拍手と共に、友川のフォーク・ジャンボリー夢の出演は終りを告げた・・・友川はステージを降りてからも、無念そうな顔をしていた。そして、押さえきれないエネルギーを持て余したように、バスケットで鍛えた足にカツを入れて会場内を走りはじめたのだ。その夜、友川は私達のテントに泊まりにきた。きくと、あの後ずっと走っていたという」(鈴木勝生著「風に吹かれた神々」より)
失意のうちに友川かずきは秋田に帰り、中学校でバスケのコーチなどをするが「いつかレコードを出したい。歌で食えるようになりたい」という夢は捨てなかった。
再び上京、肉体労働を続けながらもライブハウスなどで歌うようになる。そして蒲田のイタリアンレストラン「八十番」で歌っていたところを宇崎竜童に見初められる。宇崎がこの歌うというより叫ぶ男のどこに引付けられたのかは解らないが、ダウンタウンブギウギバンドもまだ売れていないだろうこの時期に宇崎は友川の為に尽力する。なんとか日の当たる所へ連れ出そうと尽力する。
そして1974年3月5日、友川かずきは東芝から「上京の状況/朝」でデビュー、続いてセカンドシングル「生きているって言ってみろ/人生劇場裏通り」をリリース。まったく売れなかった。しかし友川も宇崎もあきらめず、75年徳間音工に移籍、10月1日ファーストアルバム「やっと1枚目」を出すことになる。
こうして75年暮れに世に出るまでに秋田県からは、2つ年下の山平和彦が72年4月「放送禁止歌」で発売・即発禁という衝撃デビューをしたのをはじめ、74年9月には隣の高校出身の5つも年下の"とんぼちゃん"が「貝がらの秘密」でデビュー、同年3月"とんぼちゃん"の2人と同じ能代高校の松尾一彦、大館鳳鳴高校の大間ジローらが組んだ"ザ・ジャネット"が「美しい季節」でデビュー(松尾・大間はのちにオフコースへ)、同年10月山平和彦の演奏もしていた"マイペース"が名曲「東京」でデビュー、翌75年には"とんぼちゃん"の同級生だった宮城伸一郎が"がむがむ"でデビュー(宮城伸一郎はのちにARBを経てチューリップへ)、KEEBOW(キーボー)が「GIVE ME A KISS」でデビュー、因幡晃が75年のポプコンで優秀曲賞、世界歌謡祭でも入賞して翌年「わかってください」でデビューしている。同じ秋田から、友川かずきがあえいでいる間にこれだけの後輩たちがデビューしてしまった。
しかし友川かずきは"ニューミュージック"と呼ばれるそれらとはまったく趣を異にしていたし、コンプレックスや挫折に勝る原動力はないことを、証明していく。
僕が初めて友川かずきを聴いたのが、セカンドアルバム「肉声」(1976.7.25)。
衝撃的としか表現しえないアルバムだ。
育ての親である母方の祖父・児玉利道氏の危篤を受けて、東京から秋田に向かう状況から始まる。
「いなほ2号 もっと走れよ 遅いな遅いな ああ
俺の大事なおじっちゃが 死んじゃうよ 死んじゃうよ ああ
おじっちゃ典司だ! 今帰って来たど!
おじっちゃ典司だ! 今帰って来たど!
気をしっかり持てよ 気をしっかり持てよ 」(A-1「おじっちゃ」)
大事な大事なおじっちゃへの愛が炸裂している。悲しみが爆裂している。心が止めどもなく揺さぶられる。
いなほ2号は上野発15:08、秋田着が22:36。友川は次の八郎潟までだろうか。
余談になるけれど僕が帰郷のため乗っていたのは、急行津軽。上野発22:41、故郷までは12時間かかっていた。しかも寝台はすぐに売り切れてしまうため、自由席で帰ることになるのだが、座席どころか通路・デッキまで人であふれかえり、まるでマグロでも運ぶような状況で果てしなく長い時間揺られていくことになる。そんな時代だ。
「おじっちゃは でごのがっこを ガリガリかじってえだ
おがっちゃは でどごで ふぎの煮づげをこへでえだ
俺は薪ストーブのそばでいつまでも赤ぐなってえだ
冬は莫迦くへなぁ 寒いばしで莫迦くへなぁ(実際には"莫迦くしぇなぁ"と発音している)
春早ぐ来てみろ! 春早ぐ来てみろ!
このまま黙っては居ねがらな」(A-2「冬は莫迦くへなぁ」)
訳すほどの秋田弁でもないと思うが、一応訳すとこんな感じだろうか。
「じいさんは大根の漬け物をガリガリかじっている
かあさんは台所で蕗の煮付けをつくっている
俺は薪ストーブのそばでいつまでも赤くなっている
冬はつまらない 寒いだけでつまらない
春よ早く来てみろ! 春よ早く来てみろ!
このまま黙ってはいられないぞ」
10月暮れには冬の気配が始まり、11月に初霜が降りたりすると「ああ、また冬が来てしまった」と絶望的な気持ちになったものだ。4月上旬にばっけ(ふきのとう)が芽を出すまでのほぼ半年間、秋田は冬だった。秋と春が異常に短くて、冬はとても辛かった。はやくこの町を出たいと毎年思っていた。今は温暖化でそうでもないかも知れないが、そんな当時を思い出す。
「過ぎて行くって言うことは 乾いて行くって言うことさ
泣いて夜がとけるわけもないのに
自分を無くして泣きだす女 自分をみつけて泣きだす男
あめらん くゆらん あめらん らふふ
あめらん くゆらん くゆらん らふふ」(A-3「あめらんくゆらん」)
「東京さんは仏頂面だよ 背中をためしにつっ突いてやってごらん
ホラたちまちアリャ首がぶっ飛んだ
だがづぐだがづぐだがだんづぐづぐ だんづぐづん
だったんづぐづぐだんづぐづん
俺の腐った勇気の背後から陽が昇る
だったんづぐづぐ陽が昇る」(A-4「だがづぐ」)
詩人友川かずきの世界。"あめらんくゆらん"や"だがづぐだがづぐ"が、やみつきになる。
「喋るうまさより黙るうまさが これからは大切だよ
唄ってるもいいし聴いてるもいいし らしさが出ていればだよ
鉛筆の重さに自分の哀しさを のせてやる夢を見たよ
似合った青春だよ 似合った青春だよ」
「二度とないから疲れてもいいんだ 男のいくさは一度きりだよ
創るもいいし壊すもいいし らしさが出ていればだよ
生きる怖さを勇気にかえて 好きなことやってみるんだよ
似合った青春だよ 似合った青春だよ」(A-5「似合った青春」)
アップテンポに乗せて、身の丈を教えてくれる永遠の名曲。ありがとう、友川かずき。
そしてA-6、「歩道橋」。
「歩道橋の上から愛が見える
汗を拭き乍らセールスマン風の男が歩いてく
かごの中で鳥は狂い乍ら死んだ
枯れてうつむく赤いとうがらしの花
歩道橋の上から愛が見える
僕死ぬのは厭だ 僕死ぬのは厭だ僕
歌はひとつの「かご」かもしれないな」
「自動車。弟の友春君への詩。・・・・」
ここから延々続く朗読。叫び。叫び。
当時事件を起こし留置所に入っていた下の弟へ向けた詩。
何度聴いても鳥肌が立つ。どう向き合ってどう解釈すれば良いのか解らない。
「走り乍ら拳銃を撃つのはむずかしいんだろうか
ねえ君は知ってるんだろう ねえ君こそ知ってるんだろう」
これほど魂を揺さぶられる詩を、僕は他に知らない。
B面に入ると、少しホッとさせられる。やっと息継ぎができる。
コミカルな「春だなぁー節」(B-1)「冷蔵庫」(B-2)。
「楽しい人なら誰でも好きさ あったかい人なら誰でも好きさ
無邪気で一途なら信用できそうだよ 福は内 鬼は外
晒してしまえない自分なんか ああ見たくもないさ 木端微塵さ
死ぬ為に生きる言葉と一緒に 木端微塵さ」(B-3「木端微塵」)
「可哀想なトドと 可哀想な人間に唄います
北海道の空と海の蒼 かき分けるように生きてゆく動物達
役に立てば善だってさ 役に立たなきゃ悪だってさ
誰が断を下したんだよ
トドを殺すな トドを殺すな 俺達みんなトドだぜ
おい撃つなよ おい撃つなよ おいおい俺を撃つなよ」(B-4「トドを殺すな」)
当時金八先生の劇中で三原順子がライブハウスに行くシーンで、友川自身が歌っている。
僕はそれを見たことがないが、あまりに強烈な詩で、取上げたスタッフのセンスは素晴しいと思う。中島みゆきの「世情」同様に。
「悲しくなって空を見たが 空は僕を黙って見ているだけ
明日のことなど唄えない いつ死ぬかどこで死ぬか
本当にわからない
誰だろこんな夜更けに ハーモニカ吹いてさ」(B-5「ハーモニカ」)
友川かずきの詩には"死"という言葉が何度も出て来る。中原中也の「骨」「坊や」に惹かれていた当初から"死"について当たり前の様に考えていたのかも知れない。あるいは祖父の死で"死"と隣り合わせに思える様になったのかも知れない。
1986年の名作「無残の美」では、死んでしまった友人たこ八郎と、自ら命を断った上の弟で詩人の覚(さとる)のことを歌っている。今で言うなら友川かずきはまるで"送りびと"のようだ。しかし「鎮魂歌」ではなく「揺魂歌」。無残な魂の揺さぶりを歌うのだ。
「もう働かなくてもよい 歯のきれいなおばあちゃん
私のお墓はどこですか 私のお墓はどこですか
ああ寒さのかたまりが 僕から抜けません」
「あさっての方から飛んで来た 僕の孤独って奴は
うたをひとつくっつけて 飢えた犬っころにでもくれてやるよ」(B-6「ちいさな詩」)
「あんまり仲が良くなると
そのうち石をぶつけ合うようになる
それもだんだん大きい石をぶつけ合うようになる
あたって痛くても そのうち笑い合うようになる
石の躰には『自分』とかいてあった
自分の躰には『クルクルパァー』とかいてあった」
「石にならなければ せめてクルクルパァーになれたらとおもう
喋ることの好きなクルクルパァーの伝説は
それだけで もう歴史を超えるに違いないだろう」(B-7「石」)
すごい人がいたものだ。
余談。友川かずきの代表作「生きているって言ってみろ」は何度聴いても、どのテイクを聴いても「きているって言ってみろ」と聴こえる。
しかも"生きている"の"き"が鼻濁音のように聴こえる。これは秋田弁特有の発音で"き"と"し"を同時に発音したような感じになる為で、その発音の前では"生きている"の"い"は殆ど言葉にならない為である。僕はネイティブなので友川かずきと同じ発音にもなる。(だから何って感じだけど)
友川かずきは言う。孤独は財産だと。
僕は言う。友川かずきは故郷の、秋田の誇りだと。
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